昭和39年に創業し、57年の歴史を刻んできた仁張工作所。私が入社した1999年以降の22年間においても、仕事の中身は大きく変化していっています。直近5年間、特に2020年以降で無くなっていったお仕事はたくさんあって、その傾向は年々強くなってきているような感じもしています。板金加工を生業としている会社は、当社を含め“下請け加工”がほとんどであり、過去においては“量の安定”が大きなメリットとしてありました。そのことが年々弱まってきており、2020年以降、ウィズコロナやオリンピック後の日本社会においては、加速しているようにも感じられます。鋼材はじめ物価高騰の中、これからの自社のものづくりの方向性について、最近よく考えさせられます。
父であり創業社長の仁張清之介は32年間社長をつとめました。後を継いだ二代目社長の仁張正之は24年間社長をつとめました。私は三代目社長として昨年就任し、未だ1年半も経っていません。私は、過去を学び、人の話を聞ききながらも、自分で考えて、つど決断しながら、舵取りをしていきたい、と考えています。
昭和39年に三人でスタートさせた町工場。創業したての頃は、電電公社や郵便局といった官公庁からのお仕事をメインとして、会社を成長させていくことができました。その後、関西の大手家電メーカーや精密機器メーカーなどの下請け板金工場として、お仕事を頂けるようになっていきました。ターレットパンチプレスをはじめとする大型の設備投資も行い、仕事はどんどん増えて、10人、20人と会社規模を大きくしていくことができました。昭和40年代前半の日本の経済成長率は12%にも上り、私が小学生だった昭和50年代前半の頃、よく父親は「毎晩遅くまで仕事をすればそれだけ儲かる」と、言っていたことを思い出します。
平成8年に社長交代を行い、2代目社長として長男の仁張正之が就任しました。その頃の日本経済の成長率は1%程度、成熟社会の中での会社経営となっていました。私が入社した1999年の頃、会社は10億円程度の年間売上を維持していました。郵政と民間企業3社の4本柱のお客様と、特定商品の板金サプライやOEM供給をコンスタントに頂ける10社程度のお客様がいました。受注は毎月コンスタントに入ってきていて、2000年以降、リーマンショックが起こる2009年頃までは、売上は横ばいながらも安定的に経営できていた、と思います。その後、グローバル調達の風潮が高まる中、2010年に大手メーカーからのメインの仕事が海外に出ていく事件があり、リーマンショック後の約2年間、苦しい思いをしました。しかし、2011年に状況は好転、ゲーム機(プリクラ)の板金のお仕事を新たに頂くことができ、その他大手企業からの大きく増えたお仕事が2つ重なり、大きく受注が伸びました。2012年からは毎年20億円の売上も達成でき、忙しさからくるいろいろな課題に見舞われながらも、余裕を持った経営状況で進んでいきました。
2020年から準備を進め、2021年から3代目として、私(仁張茂)が社長に就任しました。当社が下請けとして頂く板金のお仕事は、「減少したり無くなっていくもの」と「新たに生まれたり増えていくもの」の両方があるものの、2020年以降は“減ったり無くなっていくお仕事”の方がかなり多くなっていきました。更に苦しかったのは、鋼材相場が3年前の2倍近くにもなり、付加価値への食い込みがでてきたことでした。折り合いがつかず断念せざるを得なかったお仕事もたくさんありました。景気後退や市場動向の変化の中で、数量が伸びず少量生産に陥る中、単価を合わせられないことも多く、先細り感は否めませんでした。現在も状況に対応すべく、会社のシンプル化・スリム化を推進していますが、と同時に売上減少も余儀なくされているのが現状です。
サプライヤーやOEM供給といった板金のお仕事は、お客様の商品が世の中から消えると無くなってしまいます。板金加工の町工場が持っているメインのお客様は3社程度の場合が多いと思います。忙しいとき、安定しているときはそれで手一杯で、悪化することに考えが回らなかったり、仮にわかっていて不安感は抱いていたとしても、対策の実行が後回しになってしまうことがよくあることだと思います。そんな中、1社の仕事がなくなってしまうと一気に苦しくなっていくケースがでてきます。当社でも私が入社した1999年以降の20余年間、世の中の変化の中でメインのお仕事が無くなっていくことが多くありました。
以下は、いずれも毎月(や季節ごとに)コンスタントに頂いていたお仕事でした。ずっと続くもの…、そう思っていたものも多いです。しかし、“ずっとつづくことはない。”と思っておくこと、危機感を持っておくことが大切、と経験から思います。お客様商品の下請けである以上、無くなってしまうことは、ある意味どうしようもないことだとは思います。自分たちのできること、コストダウンや機能アップなどバリューのご提案はしつつも、『ニーヴァ―の祈り』の思想は必要だと思います。
①郵便局のお仕事・・・2007年の郵政民営化と共に、東京での調達となり、大阪にあった近畿郵政局から頂いていた窓口カウンターやキャッシュコーナーの什器類のお仕事が全て無くなってしまいました。1990年代は郵便局の仕事量が最も多い年が続いていたのに…です。中でも普通郵便局が完成する時には受注量が一気に上がっていたのですが、関西では1999年に建てられた3つの普通郵便局(神戸中央・豊中・宝塚)への大量納品が最後となりました。創業社長は郵便局の特型商品の図面集を作成した設計者で、毎年必ずたくさんのお仕事をいたのですが、それら5社のお客様は2000年代前半に次々とお辞めになっていかれました。
②写真関係のお仕事・・・1980年代から21世紀に入る頃まで、大阪の中規模のメーカー2社から定期的にお仕事を頂いていました。ひとつは、たくさんあった町のカメラ屋さんのフィルム現像機のお仕事でした。もう一つは外資系カメラメーカーからの小型現像機の板金のお仕事でした。いずれも、デジタル化の波と共に、次第に数量が減っていき、最後には2社のお客様とも無くなっていってしまいました。
③新聞自動販売機のお仕事・・・時代がデジタル化へ進み、新聞離れもある中、毎日頻繁に入れ替えをしないといけない新聞の自動販売機は時代から取り残されていきました。50台・100台単位で製造していたのですが、メインの設置場所であった駅のキオスクは、コンビニに代わりレジでの販売に変化していきました。ものづくりの単位(ロット)が小さくなり、採算性も悪化していきました。最後には、お客様である大手メーカー様が生産中止をされるに至りました。
④プリクラ機のお仕事・・・近所の板金工場が廃業され、そこから引き継ぎ2010年から本格的にご注文を頂けるようになっていきました。ピークには年間800台ものボリュームの大きなお仕事になり、売上の20%を占めるようにもなって、自社で対応できる範囲を超える中、東大阪を中心とした多くの板金工場様にお手伝いを頂くようになって、仕組みができあがっていきました。しかし、お客様がリーダー(トップシェア)でなかったこと、スマホやアプリの普及、利用者(中高生)の減少、ゲームセンターの減少など、いくつもの社会現象が相まって、2018年にお客様が無くなってしまいました。
4つの分野に携わっておられたお客様は、いずれも長い苦悩の時間を経験されていたように思います。決して、突然のできごとではありませんでした。“世の中の変化は加速している。”多くの人がそう感じているのは確かだと思います。常日頃から、ある時から、先のことを考えること、をしていかないと・・・、最近よく思います。
①ストリートファイターをつくっていました。…
話はそれますが、当社は昭和50年代、“ストリートファイター”の板金部分を製作させて頂いており、そのことは今でも古参の社員の方から耳にする語り草となっています。(当社にとっては)毎日“ものすごい台数!”のゲーム機を生産していたことがあります。その後もゲームセンターのゲーム機については、短期間にものすごい台数の対応が必要となることが多いです。昭和の時代は毎日夜遅くまで仕事をしていたようです。日本の高度経済成長はそこから来ていたのだなぁ、と思います。
②みんなが一気に群がるのは…?
その他にも、最近では、国の方針で“ギガスクールによる全国小学校各教室へのタブレット保管庫”のお仕事は記憶に新しいところです。近隣の同業の工場様でも当社同様大忙し・・・。その年度は大きく利益を上げられた会社も多くあったようです。そういったお仕事、瞬間最大風速のお仕事は、私はあまり歓迎ではありません。前段の昭和のゲーム機とは異なり、協力業者さんに助けを求めることもできる今はまだましになったとはいえ、…です。コロナによる生産停止、昨年の鋼材供給不足、戦争も影響する部材調達、入札競争の激化と物価上昇・・・きちんと採算を取ること、納期を守ること、その上で社員のワークライフバランスを守ること。・・・令和の時代には、昭和の時代とはまた別のクリアすべき課題がたくさんあって、“ものづくりが難しい時代になった”と感じるからです。
4月以降当社は仕事量が少なく苦しい状況が続いており、コロナ禍による雇用調整助成金の延長のニュースなどは興味深いところではあります。ちまたでは是‣非の理論もありますが、私は決まった国の施策に対して“どう行動すべきか”を考えるだけ、だと思っています。そのことよりも、この不景気はそれだけが理由でなくて、国内における需要と供給のバランスが悪化していることが、その理由の大きな部分を占める、と思っています。設備能力の向上や補助金活用による町工場の設備投資も多い中、みんなが仕事の取り合いになっていることがその現象を招いている、だから劇的には改善しない(仕事量が増えない)と危機感を持っています。そして私の中では、“景気と仕事量とは一致しない”と思っています。鋼材をはじめ、物価高や円安という状況の中、「自社で輸出なんてとても・・・(Alibabaで失敗した苦い経験あり)」といった当社などの板金町工場は、ほとんどの会社が苦しんでいる、と思います。
そんな中、私たちが考えるのは、『よそでは難しい』とか『安心して任せられる』とか『こんなものが欲しい』といった“もの”が作れるようになること、そして、“こんなのができますよ”“あなたの欲しがっているものはここにありますよ。”と作品や技術力をアピールしていくこと、そういったことに積極的に取り組んでいきたい、ということです。時代の流れに沿ったものづくりに真摯に取り組むこと、そういったヒントを拾ってきた営業マンの方から声をかけて頂けるようになること、営業マンの方から丸投げしてもらえること(手離れが良い)、お客様の開発商品の板金部分についてお任せ頂けるよう設計者の方と接点をもつこと、・・・そういった取り組みこそが、会社にとって最も大切な“世の中に必要とされること”、しいては会社を続けていける理由になる、と考えます。
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