東大阪市の中小企業、特に町工場の歴史や特徴と、そこで営みを続ける当社のこれからの展望についての考察です。
人口約51万人、面積61.81㎡、大阪府東部に位置する東大阪市は、2005年データによると商工業などの事業所数約28,000うち製造事業所数約7,400を誇る日本屈指の“中小企業の町”である。
特徴的なのは、その“工業密度”であり、1998年時点では1事業所あたり167.8/㎡と全国屈指であった。
工業密度が高いということは、中小零細企業が多いことの現れであり、なかでも従業員規模が4人までの事業所が半数以上を占めている。
東大阪市の中小企業において最も特徴的なのは、“特化した産業がない、下請け企業の集まり”ということである。ここでは、単一型の産業構造ではなく、そのことから“ゴッタ煮”“おもちゃ箱”と表現されることもある。
むしろ都市型の中小企業集積に見られるような産業の多様性の中に、いくらか地域にみられる単一型の産業構造をブレンドさせた性質をもっており、他の都市と一線を画する。
東大阪市では、この高度集積を背景とし、「東大阪で作れないものは無い」と呼ばれるほどに多種多様な業種・業態が立地している。
“ロケットから歯ブラシまで”ということばはそのことをよく表現している。
東大阪は有機的な分業システムと地域内ネットワークが発展し、「ものづくりのまち」として全国的に知られている。
そして、その中から技術的に秀でた中小企業、ニッチトップやオンリーワンと表現される独自技術・高度技術が生まれ、日本だけにとどまらず海外でも活躍するに至っている。
東大阪市の中小企業の特徴を語るにあたっては、東大阪の地場産業とその歴史を振り返ってみることが有効である。
現在、全国各地に発達している地場産業の産地数は300以上とも500以上とも言われている。
地場産業とは特定の地域に同業種の中小企業が根付きながら集積した特化型の産業であり、その製品が全国市場あるいは輸出市場に販売されていること、と定義づけできる。
(ちなみに大阪府では、以下のように定義づけている。
「主として地元の資本による中小企業群が、一定の地域に集積して、技術、労働力、原材料、などの経営資源を活用し、生産、販売活動をしているもの」)またその多くが地方都市に発達している側面もあって、地場産業といえば地方の産業というイメージが強いが、実際には東京、大阪などの都市圏にも地場産業がたくさんある。
(大阪府は昭和56年に63業種を選定)有名な地場産業でいえば、新潟燕市の洋食器、石川の九谷焼や輪島塗、鯖江のメガネ、泉佐野や今治のタオル、播州や三輪の素麺等々があげられる。
地方都市の地場産業は、これだというものを比較的明確にできるが、都市圏ではその存在があまり見えてこない。
しかし、東京や大阪ではかつて色々な地場産業が興り、それがもとで都市の産業が発達し、今では近代工業を中心に多種多様な産業が発達しているがために、地場産業の存在感が薄れてきたといえる。
このことは、東大阪についてもぴったり当てはまる。戦後高度成長期頃までの東大阪市では多彩な地場産業が発達し、いわば地場産業の宝庫といえる地域で、何が地場産業であるかは地域の人間でも見ることができた。
しかし現在の東大阪は実に多種多様な産業が高度に集積している。こうした産業の中にも、よく見ると長い歴史の中で地域に根付きながら特化し、今でも高いシェアを誇っている地場産業がある。
東大阪の地場産業の歴史を顧みると、大きくは“木綿”“鋳物”“伸線”“金網”“作業工具”“鋲螺”などがその代表的なものとしてあげられる。
それ以外にも歴史の中で“セルロイド”“歯ブラシ”等が生まれ、今でも八尾の歯ブラシは全国的に有名である。
河内地方(大阪府東部)では、江戸時代に木綿の産業が発達していた。“河内木綿”として有名なその素材は広く大衆の衣服などに使用されていた。
江戸時代後期に隆盛をきわめた河内木綿の生産は、当時の最大の地場産業として地域の経済を支えていた。
ところが明治時代に入ると、政府の殖産興業政策の下、西欧から近代的な紡績機械が導入され、在来の国産綿がそれらの紡績機械に不適であったこともあって、綿作農業が衰退していった。
紡績機械への適応を追い求め、後にタオル織業で開化していく泉州泉佐野とは違って、技術革新に遅れをとった河内木綿は大正時代の初めに姿を消すこととなった。
当時は木綿が最大の地場産業であっただけに、木綿産業の衰退は地域経済・地域社会に多大なる影響を与えた。
木綿からの転業を余儀なくされる者、大阪市に丁稚奉公に出る者、失業する者など様々であった。
その後、丁稚奉公や失業者たちは、木綿から派生した“撚糸業”(糸をよる)に従事したり、歯ブラシメーカーで植毛作業、ボタンメーカーから穴あけの仕事を内職で請け負ったり、と枝分かれしていった。
鋳物の主要産地としては、川口(埼玉)・南部(岩手)・佐野(栃木)・桑名(三重)等が有名であるが、河内鋳物の歴史はそれらよりも古く、奈良時代にまで遡ることができる。
平安時代には、河内丹南地方で鍋釜の鋳造が盛んになり“河内鍋”と呼ばれた。その後、鎌倉時代に河内鋳物はその隆盛を極めた。すなわち古代~中世にかけて河内鋳物は活躍したこととなる。
中世後期南北朝の乱以降、河内鋳物の繁栄は衰えたものの、江戸時代後期~明治期にかけて、主に布施地区で鋳物業は開花、主に鉄瓶や茶釜などを生産、技術を身に付けて独立していく者が増えた。
大正期、鉄瓶の生産は量的にも増大し、布施の鋳物は全国へ向けて出荷されていったが、昭和初期、軍需産業の発達によって、そのウェイトは急速に機械関連の鋳物部品生産へと変化していき、同時に地域の主要産業へと発展していった。
また機械工業の枠組みに組み込まれたことによって、下請け企業としての体質を強めることにもなっていった。
戦後の鋳物業界はその復興も比較的早く、特に大阪の地場産業となったミシンの発展により、その頭部・脚の製造方法として鋳物工業は勢いを見せた。
しかし昭和40年代後半以降、高度成長が成熟期を迎えると鋳物業界は、構造変化と都市化に伴う立地上の問題を抱えるようになった。
産業構造上の問題として需要先から量産化・軽薄短小化の命題を投げかけられ、ダイカスト鋳物へのシフトを招いた。また製造工程で発生する煙・粉じんの公害問題、強化プラスチックなどの新素材の出現等も影響を与えた。
こうして東大阪市から他都市へ移転した企業、構造不況によって倒産した企業、後継者難、人手確保難、公害問題などから廃業する企業も増え、東大阪の地場産業と呼ぶには少し寂しい感もあるが、美術工芸品として高く評価される鍋や釜の存在や、鋳物工業が機械工業や金属加工業の発展に寄与した功績は大きいといえる。
江戸時代末期に始まったといわれる当時の伸線作業は、樫の木の丸太に穴をあけて線材を孔に通して人力によって引っ張って伸ばすという原始的な作業であった。明治期に入ると生駒山頂から西部の谷に向かう急流付近にある水車を利用して、水車を動力とする伸線作業が発達するようになった。
立地的に適していた枚岡地区では、明治中期には10を超える工場が立ち、盛んな産業として発展していった。
また材料革命により、それまで銅か真鍮であった素材が鉄材に代わり、その安さと汎用性から、主に大阪の針金問屋からの注文が入るようになって、枚岡の伸線業も次第に鉄線へと代っていった。
その後大正期に入って、その動力源を水車から電動機に代わり、安定した生産活動ができると、昭和10年には、大阪府道・大阪枚岡線(産業道路)の開通もあり、こうした状況下で枚岡の鉄線業は増え、昭和10年には100社近くにもなった。
戦前戦後は、配給下にさらされ量的規制もあり、市場の混乱に見舞われたが、昭和30年代以降、高度成長期においては連続伸線機の登場など生産合理化に拍車がかかり、40年代初めには東大阪の伸線業社の数は140に至った。
生産高では東大阪市工業生産の10パーセントを占め、全国シェア40パーセントを占める東大阪市最大の地場産業の地位を築いた。
ところが、生産過程において酸洗に使用していた生駒山からの流水が廃酸となり、それが農業に害を与えるとして問題となってきた。
こういった公害問題、人手不足、労使関係の悪化等の様々な問題により、伸線工場の数は昭和50年代以降減少の方向になっていき、生駒山麓部に集中して立地してきた“伸線の町”も工場跡地にマンション等が建つようになっていった。
金網というのは、針金を網状に織ったもので、線材関連業界である。
東大阪における金網工業は江戸時代初期ごろからではないかという説があるが、その生産が明らかになるのは明治期に入ってからである。
その頃の金網は手織で、農閑期を利用した副業として家族労働に支えられてきた。
材料の針金は、大阪の針金問屋まで大八車で仕入れに行き、それを餅焼網やザルなどの製品に加工し、それをまた大阪の金網屋に納めるという零細な家内的手工業であった。
明治末期になると、手動式の金網織機を導入する業者や、大正期には亀甲金網織機がドイツから輸入され、次第に手織から機械織へと技術革新がされていった。
それ以降、養鶏用の網、製粉やセメント用フルイに金網が使用され、その後は軍需用としてもその用途も拡がりを見せていった。
戦時中は線材の統制が厳しくなり、中小製造業が主だった東大阪の業者は材料調達その他の面で苦労したが、戦後は家庭用金網も復活し布施地区を中心に栄えていくようになった。
昭和30年代後半以降の高度成長期には建築・土木・工業用の需要が増えたが、40年代以降次第に人手不足が深刻化するとともに、プラスチック素材の登場により、家庭用品を中心にその需要がとって代わられるという構造変化に直面した。また織網以外の加工技術の接近も金網重要に打撃を与えた。
東大阪の中でも、上小坂地区と小若江地区に企業立地が集中していたが、昭和30~40年代にかけて大阪の人口ドーナツ化現象を受けて上小坂・小若江地区あたりにも住宅開発が急速になされてきた。
また所在する近畿大学における学生数の増加で、都市化・商業地域化・住居地域化され、古来、当地区に立地し集積してきた金網業にとって存続が困難な状況が現れてきた。
このように、市街化の進展による工業立地と低賃金労働力の確保が難しくなってきたことから、奈良県などに工場移転するなどして分散する傾向を強めてきた。
また、零細な企業では、人手不足、後継者難等を理由に廃業するものも現れるようになった。
そういった中、近年では工業用ハイメッシュなど高度な技術を要する分野で、ドイツの技術と競いながら高度化を目指している。
現在の日本の作業工具(レンチ、ペンチ、ニッパー、ハンマーなどの手工具)の産地と言えば、大阪(特に東大阪)と新潟三条とがあげられる。
歴史的には東大阪の方が古く、理髪用ジャッキ(理器)の生産に始まり、昭和初期以来、作業工具に転換をなしてきた。
東大阪では明治末期ごろから縄手村四条(六万寺)を中心に理髪用ジャッキを生産する工場が増え、大正期には国内需要はもとより、中国などに輸出されるようにもなって市場は拡大していった。
昭和初期には枚岡村四条を中心とする理器工業は、その年間生産量でジャッキ24万丁、バリカン8万丁という規模に達し、理器生産の地場産業を形成した。その頃には、新たにモンキーレンチ・プライヤー・ペンチ等の開発にも成功、作業工具の国産のパイオニア的地域となっていった。
太平洋戦争がはじまると軍需用鍛造品の仕事にも従事したが、戦後は再びモンキーレンチ・バリカンその他作業工具の生産が増えるようになった。
高度成長期である昭和30年代の生産量は5倍以上に膨れ上がり、昭和45年には東大阪市の作業工具製造業は、その生産高で45億円、全国の生産シェアの約20%を占めるようになり、業界でも高い地位を占めるようになった。
しかし40年代以降、集中立地であった四条町、六万寺近郊に住宅開発が進められ、作業工具の製造に不可欠な鍛造工程から発する振動と騒音が公害問題として浮上してくると、別の業界同様、社会問題となる様相を呈することにもなった。そして新たに作業工具団地として加納地区に用地を確保、移転を計画したが、厳しい経済環境や後継者難、公害問題なども相まって、最盛期には100社以上あった事業所数も大きく減少していった。
厳しい経済環境に直面する中で、新しい動きとして“製品の高級化”“”精密部品や他分野への進出”“電動工具など省力機器へ進出する”等の企業が出現していった。作業工具業界の成熟は、地場産業の崩壊という一面と同時に、新事業分野への革新という側面も有するようになっていった。
鋲螺とは一般的にはネジという方が分かりやすい。
鋲螺工業はヨーロッパがその先進国で日本はその模倣からはじまった。
大阪では明治維新のころ増加した造船所で使用されるようになり、産業革命期に発展の方向を辿った。
また明治末期から大阪では伸線業社が増え、関連の深い鋲螺工業も発達していった。明治42年では東京約58%、大阪約21%だったシェアが、大正10年には逆転、大阪約46%、東京約30%とトップの座についた。昭和に入ってからはその発展にさらに拍車がかかり、東大阪の鋲螺工業は産地形成、主に高井田地区を中心にねじ工場が増えていった。
太平洋戦争下で軍需産業として鋲螺工業は拡大、戦後低迷期を経験はしたものの、昭和30年代以降、再びその隆盛を取り戻し、40年代初めには、全国の鋲螺生産額の3分の1が大阪府、東大阪市はその3分の1を占めるまでに至った。
全国シェアで見ても東大阪市は10%強を占め、地場産業としての地位を確固たるものとした。
東大阪がこのように鋲螺の産地形成を見てきた背景には、線材の供給面で伸線業の地場産業が発達していたという立地上の理由があげられる。
今日では東大阪の地場産業の中でも、企業数において最も多い地場産業へと発展した鋲螺工業ではあるが、昭和60年来の急速な円高によって、国際競争力を失い輸出が減少、内需に依存するようになった。
こうした背景下で、単なる締結部品としてではなく、高度な技術を駆使しての、ねじ付き部品や精密部品の分野に進出する企業も現れてきている。
東大阪の地場産業として発展してきた業種をいくつか見てきたが、それらに共通していえる課題がいくつかある。
第1にそれぞれの産業が古い歴史の中で培われてきており、飛躍的な発展期を迎えたのがいずれも戦後の高度成長期であった、ということである。
時代ごとの環境下において企業集積を進め規模の拡大を図り、大よそ昭和50年を前後して成熟期を迎えたといえる。
それ以降の経済における構造不況の下、新規参入の減少、事業の縮小、廃業や倒産が増えて、企業の集積度合が次第に低下する傾向を見せていった。そういった状況下においても、経営力を有する企業は合理化への努力によって円高などの厳しい情勢を克服したり、または新規の事業分野への進出を図るなどしてきた。
このような新しい分野の開拓、事業転換も、在来の企業集積を特徴とする地場産業が逆に分散化していく要因のひとつとなっている。
第2に地場産業共通の問題といえば、地域の市街化に伴う産業立地上の問題がある。
地場産業は東大阪市域のなかでも、特定の地区・地域を背景に発展してきた。鋳物の布施、金網の上小阪・小若江、作業工具の四条・六万寺などがその例として挙げられる。
ところが戦後の高度経済成長下において、東大阪市の人口、産業は急増し、古来からの地場産業の集積地にも住宅化(市街地化)の波が押し寄せてきた。
そこでは、振動・騒音等の公害問題が取りざたされ、さらには土地の利用についても様々な規制がかけられるようになってきた。
一般的に地場産業が立地する理由としては、地域の自然・資源・歴史などと密接な関係がある場合が多いが、東大阪市の場合は、古来より生駒山水からの水力で発展を遂げてきた伸線工業の例はあるものの、それ以外の業種においてはその関わり方は浅いといえよう。
実際、伸線工業においても今日ではその動力源が電力に代わられたこともあって、地区・地域にこだわる理由がなくなってきた。
そこでは地域の資源や自然による立地型というよりも、むしろ技術の集積によって発展してきたといった傾向の方が強い。
その結果、地場への集積よりも工場の分散化を促すようになってきた。
企業にも寿命があるのと同様、産業にもライフサイクルがある。何百年もの永きに渡る伝統産業を地場産業と呼ぶならば、近代工業で形成され地場産業も存在し、東大阪のそれは、まさしく後者の近代工業に属する地場産業といえよう。
そこでは時代の変化とともに“技術を創造的に破壊する”という革新こそが、産業としての維持・発展を可能にする。
東大阪の地場産業においては、それぞれに発展期から成長期にかけて、技術革新と需要の開拓に対する企業努力があったし、その企業努力こそが今日まで地場産業の寿命を延命化してきたものといえる。
地場産業の原点“=同業者による中小企業群”というならば、あくまでも構成している個別の中小企業が、厳しい経済環境下の今日においては、地場産業という枠を超えて異業種との交流を図るなどの試みをしながら、新しい事業分野を開拓していく努力が求められる。またそういった試みこそが、次世代の地場産業を創生することにも繋がっていくと考える。 [参考文献]湖中齊著『東大阪の中小企業』
前述のような、東大阪の中小企業を取り巻く環境の変化に直面し、当社㈱仁張工作所ではどうだったか、そして今後どのような戦略・戦術をもって経営展開をしていくのか、を以下に述べたいと思います。
現取締役会長 仁張清之介が、大阪の金庫メーカーの勤務を経て、昭和39年に当社を創業。スチール家具のルーツは金庫であり、このとき、創業者の経験を活かしたスチール家具製造に営む仁張工作所が誕生しました。
創業当初は、現会長と2名の従業員が、昼間は数坪の貸し工場で設計などを行い、夜間に他社の工場で機械を借りて、主に郵便局の什器、保管箱などを製造していました。
その後、順調な企業成長とともに、昭和41年には本社工場を新築、昭和43年、昭和45年と分工場を設け、企業基盤が整った昭和49年に法人組織へと改組。先代経営者の時代では、経営者のトップダウンによる意思伝達系統のもと、技術重視でこだわりのスチール家具を、主に官公庁向けに供給する、アットホームな社内雰囲気があり、経済成長を背景に、製造部の力が強いプロダクトアウト志向の経営で成長を続けてまいりました。
現代表取締役社長 仁張正之は、神戸大学工学部で生産機械工学を学び、同大学院で生産システム工学を専攻した後、他社の勤務を経て、昭和63年に当社に入社。
平成8年に二代目社長として当社代表取締役に就任しました。平成12年頃から、大手メーカーが工場を海外に移転する「産業の空洞化」が顕著になり、これまで下請けに依存していた当社業績に陰りが見え始めました。
このような時代の変化を受け、次代経営者は、代表取締役就任時に伝播した経営理念のもとに組織作りに着手しました。
改善提案制度の導入など、ボトムアップによる現場発の意思伝達系統も組み入れるとともに、営業部の強化によってマーケットアウト志向の経営スタイルへと、時流に沿った深化を遂げました。
そして現在では、インターネットを活かして、自社ブランドを開発する板金加工の専門家集団を目指しています。
このような変革を経て、長年にわたり、特殊な別注家具の製造を下請けする過程で蓄積した技術ノウハウに加え、設計から板金加工、塗装までを一貫して自社内で賄える強みを活かし、これまで取引のなかったエンドユーザーを対象とした直販ビジネスへの参入を果たしました。規模生産ラインを抱える大手メーカーでは採算が合わず、小さな町工場では技術的に難しい別注スチール家具のニッチ市場で、こだわりのモノづくりを通して培った技術力とコスト対応力を発揮、今尚、新たな進化に挑み続けています。
仁張工作所のこれからの事業展開では、第四次(2009-2011年)の中期経営計画に掲げた「既存の仕事にとらわれず、板金加工の専門家集団として、経営環境の変化に適応できる”揺るぎない組織”を目指す」という スローガンを成就するため、教育(共育)訓練制度の充実を端緒とし、一層の品質レベルの向上を目指します。
そして、品質レベルの向上を起点に、コスト(価格)・納期の要求水準を高め、 「板金加工=サプライ・インダストリー」、すなわち業種業態を問わず、あらゆる産業分野において活用される基盤技術(板金加工)の可能性にチャレンジします。 サプライ・インダストリーとしてのシーズをもって、顧客・市場ニーズを的確かつ迅速にカタチにするため、顧客オーダー、すなわち顧客ニーズの収集窓口となるホームページへのアクセス数向上に 努めるほか、ホームページからの受注が集中する東京都内への営業拠点設置を検討しています。
これにより、仮想店舗と実店舗という双方のアンテナを介して、より新鮮かつ層の厚い個客ニーズをキャッチし、サプライ・インダストリーとしてのシーズをもとに、これら個々のニーズへの対応力を 高めることで、オーダーメイド製品の更なる充実を目指します。
また、オーダーメイド製品の起源となる個客ニーズの中から、個々のニーズの最大公約数を導くことで、市場ニーズが高く、汎用製品としても供給が可能なものを自社ブランドとして進化させ、すでに 当社が自社ブランド製品として展開している、貴重品ロッカー「N-forme」(エヌ・フォルム)やデザインロッカー「N-model」(エヌ・モデル)の充実、そして新たな自社ブランドの創造を目指します。
さらに、ニーズ対応力の向上とともに蓄積される製品の開発・提案力をもとに、OEM製品の付加価値を高め、安価な海外製品との競合はじめ他社製品との価格競争を極力回避し、製品そのものの魅力を高めることで、 割安感のある製品の持続的な供給を目指します。
以上の事業展開によって、「揺るぎない組織=サプライ・インダストリー」という基盤のもと、個客ニーズの深耕から導かれる、オーダーメイド製品・自社ブランド製品・OEM製品の充実した供給を通じ、 個客サプライそしてOEMサプライにおける連鎖的な市場創出を目指します。
~以下は2005年の中小企業白書に掲載された仁張工作所の紹介記事です~
C社(大阪府、従業員75名)は、創業以来、主としてスチールやステンレスの薄鋼板を加工して各種保管庫・キャビネット・デスク等の設計製作を始め、箱物板金製品・各種精密板金製品という下請け的色彩の強かった業態であったが、近年、自社開発商品の創出とインターネットを利用した販売形態を組み合わせて新規販路を開拓するなど、経営革新を図っている。
【中小企業であることの強み】
C社の強みは医療什器の壁面収納庫や防火衣ロッカー等のニッチな部分に特化し、精密板金加工技術を武器に設計から切断・プレス、組立・塗装・仕上げまで、全工程の「一貫生産体制」を敷いており、短納期・小ロットでの多品種変量生産に対応できることである。2004年から本格的に開始したインターネットによる受注も、HPを通じて顧客の描くイメージを図面にし、承認をもらってから生産するという、いわゆる「オーダーメイド」に対応できるのが特徴となっている。
こうした、オーダーメイド品は、流通コストや製品在庫負担がかからず、市場価格に比べて安価に提供できること、顧客のニーズ(例えば寸法、使用素材、色、用途など)に合わせたセミ・オーダーメードでの対応が可能であることなどを武器に競争優位を確保している。
また、技術・コストだけで勝負するだけでなく、例えば、郵便区分仕分棚であれば、はがきが入り口で引っかからない加工や、船の貴重品ロッカーならば揺れる船内でも中のものが飛び出さない工夫など、モノに「使いやすさ」というサービスを付加している。
こうしたサービスは、常に使う側に立った開発にも腐心した微妙な工夫を大事にすることから生まれてくるものであり、顧客に受け入れられやすい製品を開発している。製造業であっても、単に「モノづくり」のみに腐心するのではなく、受注形態の柔軟さやサービスの付加は中小企業が本領を発揮できる分野と考えている。
【技術+アイデア+販路で自社ブランド製品を販売】
HP販売を行う上で、「電気式の貴重品ロッカー」へのニーズが高いことがわかってきた。この「電気式の貴重品ロッカー」の開発に向け、当社にノウハウが無い「電気式」の部分については、電気メーカーと連携し、それぞれの強みを発揮して開発・生産していく予定である。
元々は板金加工というローテクな分野ではあるが、当社の特長を生かした生産と、顧客志向から生まれた工夫、HPという新しいツールを用いた販売が融合することで、独自のブランド製品を生み出した、まさに「経営革新」なのである。
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